所属はじぶん。毎日どこかに通わなくなって得たものは、あらたな所属意識でした。
通勤をしなくなってから、1年以上が経ちました。いま考えてみると、通勤というのは、毎日の習慣化された行動によって「所属意識」を自然と高めるものだったんだなと思います。会社に入る時に社員証をぴっとするだけの行為でも、気づかぬうちに会社への所属意識が高まっていく。意識の高まりなのか、ただの利便性なのかわからないけれど、朝から社員証を首から下げて会社に行く人も多く見かけました。
私も1年以上前までは、毎朝シアトルの通勤客で混むバスに乗り、座った席で人の邪魔にならないように本を読み、ダウンタウンで降りて、たまにコーヒーとキッシュが美味しいお店に立ち寄り、まだ少し起き抜けの街の雰囲気や人のざわめきを感じながら、歩道に出てきたデリやカフェの立て看板を通り過ぎ、オフィスのある建物に入り、警備の人に挨拶をして、カードキーをかざしてエレベーターに乗り、自分のオフィスに行く、という行動を何度も繰り返していました。それによって、自分のなかの組織に対する所属意識が揺るぎないものになっていたのだと思います。
その通勤がまったくなくなった1年間。
いまは所属が自分の家になりました。もっと言うと、所属が自分自身になった。そして、解放感を得るとともに、アライメント(自分の在り方や価値観を行動を一致させること)を深く考えるきっかけをもらいました。
まずどこかに所属する前に、自分に所属をする。個人として何が出来るのか、何をしたいのか。その上で、組織と社会とどう関わり、何を実現していくのか。本来そうあるべきであった流れ、それを改めて取り戻したような気がしています。