「みんなと同じがいい」私

長い間「みんなと同じ」という道にはあまり乗ることもなく進んできました。 そんな中、先日あった不意打ちな出来事。

「みんなと同じがいい」

先月映画を見ていて、こんな言葉が心に引っ掛かりました。

私は長い間「みんなと同じ」という道にはあまり乗ることもなく進んできました。今振り返ると、そういう道をわざわざ選んできたんだなとも思う。納得できないことはしなかった。高校は「みんなと同じ」になる制服がない学校を選んだ。就職活動だってリクルートスーツは着なかった。仕事を辞めて渡米してみた。病院じゃなくて納得できる自宅出産を選んだ。好きなものを着て、好きなものを読み、好きな人と繋がって生きてきた。他人の選択に影響されずに生きることに、それなりに自負を持って生きてきた。自分は同じでなくていい。私は私にしかなれないから。

そう思っていたはずなのに。

先月、自分の奥底にはもうないだろうと思っていた「みんなと同じがいい」という思いが、突然出現してきたのです。


アメリカでは9月は新学期の始まり。ワクチンが普及してもCOVID-19がまだ健在なシアトル。でも小学校は始まっていく。その中で、私たち家族は暫くはホームスクールをするという、新しい選択肢を選ぶことになりました。

乗り気ではなかった私。「だって娘のために、社会的な繋がりをちゃんと作ってあげたい」という正論が理由だったのですが、よくよく考えてみると、そこには実は隠れた私の「みんなと同じがいい」という思いがあったことに気づいたのです。

まさかこんなところで顔を出してくるとは。

「みんなと同じ」であると楽なのは、説明をしなくてもいいこと。でもみんなと同じでないと理由説明を求められることが多い。自分の中でどこか引っ掛かりつつ、周りに説明することが続くと、それは結構精神的につらくなる。

でも先日思ったことは、結局は「家族が大事」ということに根付いた決断だということ。どの家族も決断の形は違っていても、根底にある想いは共通しているということ。そこにたどり着いたとき、「みんなと同じがいい」というもやっとした思いは、少しずつ消えていったのでした。

そんな発見があった9月。でも、きっとこの「みんなと同じがいい」は、また出てくるはず。だから、今回は気づけて、その思いと知り合いになれただけでも良かったかな、と思っています。